愛という字は振り返る人の姿がそのまま漢字になっているそうです。心に残っている人を振り返りながら歩き去る、そんな意味が込められているのではないでしょうか。
私が初めて先生に出会ったのは6歳の時です。もうその時の記憶はほとんどないのですが、初めて書を書いたのは五反野教室で、踊るように2時間書き続けていたと親から聞いています。そこでは1枚書くごとにお菓子がもらえ、それを目当てに書いていたような記憶が薄っすらとあります。その時とても広い部屋に、なんかわからないけどすごくでかい赤いお城の紙細工があった、と覚えています。手作りだとは考えられず、てっきり買ったものだと思っていたのですが、先生が自分で作ったと聞いて驚いたような気がします。
あれから16年、先生が亡くなった後の会のこれからについて話す為に、今一度五反野教室に行きました。こんな形で再び訪れるなんて思ってもいませんでした。16年ぶりに見た教室は記憶よりもずっと狭く、大きく感じた赤いお城も今では小さく、時が過ぎたことを実感させる要因になり、とても寂しい気持ちになりました。
先生は人をとても注意深く見ていて、書いてきた作品をひと目見ては「なんか悩み事でもあるの?」とか「なんかいい事でもあった?」などと、相手の事を見通す力があり、実は……と相談すると納得のいく答えを教えてくれました。
他のお弟子さんは書きながらおしゃべりをしている方が多かったと思いますが、自分は会話も少なく、書いてきた書の良し悪しを聞いてすぐに帰宅、という流れでした。先生も私のスタイルに合わせてくれ、こちらが話しかけるまでは待つというスタンスでした。今はあまり喋らないが、もっと歳を重ねるにつれて先生と話すことも増えていくだろうから、その時まで自分も自分のペースでいこうと思っていました。そうしたら稽古がもっと楽しいものになるだろうと思っていたのです。しかし残念ながらその時が来ることはありませんでした。今では、少し無理をしてでも先生と喋っておけばよかったと後悔しています。
先生とは泰永書展海外展で2度一緒に海外へ行きました。荷物も海外へ行くとは思えないくらい量が少なく、いつもと変わらずあの薄手の作務衣を下着の上に着ていました。そのせいか、とても寒がっていたり、体調を崩したりしていましたが、それも先生らしいなと今では思えます。また飛行機が離着陸する時とても揺れて、「ものすごい揺れだったね」や「怖かったね」などと話していて、少し子供っぽいところもあるのだなと思い、先生のような天才でもやはり人なのだと再認識しました(笑)。
海外ではみんなで美術館に行ったり、食事を共にしたり、温泉に行ったりもしました。先生も日本とは全く違った街並みを堪能したのではないでしょうか。セレモニーでは、代表として堂々とした立ち居振る舞いや、海外の皆さんにも歩み寄っていく姿が見られ、とても勉強になりました。
帰国後も飛行機の揺れの話や、あそこは寒かったよね、などの思い出話を何度もしました。それほど先生にとって忘れられない大切な、そして楽しく刺激的な思い出になっていたんだと思います。
野尻先生は姓名学を学んでいて、その繋がりで入会したお弟子さんもいるのではないでしょうか?その名前から個々人に合わせた教え方をしていたと聞いています。
先生の最期がせめて安らかであったことを願います。
松里 翠甫
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